義務教育など

先日、書店に行きました。

というのも、私はよくFFの読了投稿から次に読む本を決めることがあるので、今回もその要件で。S&Mにはまってて、(まだ5巻くらいしか読んでないですが、)森先生の新書で「科学的とはどういうことか」という本を探してたんです。そしたら、その隣に、同じ著者で「勉強の価値」という本が目に留まって、なにこれー!と1人テンションが上がっておりました。(なお、2冊とも購入済)

 

ここ数年、(受験期をかけて?)何のために勉強しているのか、自分の中で義務教育にはどんな意味があったのか、よく考えていたので、その話と、本から読み取ったこと(偏りあり)と、感想とを織り交ぜながら書いていきたいなと、

思います。

 

<自分は義務教育をこんな感じで考えている>

 私は、というか全員が、義務教育ですべての教科を学びました。この理由としていろいろ考えられることはあります。が、今までの持論は「とりあえずまんべんなくいろいろなものに触れる。そのうえで興味を持ったことを追求する。」でした。この転機はおおよそ文理選択が多いのかな、と個人的には思います。実際、私はいろいろな仕事があることや、いろいろな分野を覗いてきたうえで、医療に興味を持ち、いまに至ると考えています。

 けれど最近弟に「自分が何をしたいのかわからない」と言われました。その時私は、「今までたくさんのフックがあってもなお、興味のあることがないということなのか」と感じました。(私の先生(?)はよく「フック」という言葉を使うので、ここでも使わせてもらいます。たくさんの情報が自分の中に入っては出ていく中でも、自分の中に残ったもの=フックに引っ掛かる、みたいなイメージです。)高校に進学することも珍しくない時代。周りに流されるまま、受け身のまま、なんとなく進級し続けているとフックに何も引っ掛からない人も出てくるのか、と驚いた記憶が。義務教育の負の面なのか、とも。いや、フックは日常生活にもある。経験が浅いのか?なんともいえない。

 

カンボジアの子供たち>

 前にカンボジアに行った話をしました。その時にお会いした企業の方の一人が、カンボジアの農村部にいる子供たちに将来の夢を聞いたという。子供たちは、医師・教師・農業などの数個しか挙げなかったそうです。また、カンボジアは学校のドロップアウトや、教育が高等になるほど就学率が低くなるということは数字でわかっています。ここからわかることは

世の中の職業を学ぶ機会がない(これはお会いした企業の方がこの課題に取り組んでおられました)

自分の能力を客観視できない(この二つ目は、カンボジアに同行してくださった方に言われました。はじめ言われたときはほんとうにお恥ずかしながら、ピンと来てなかったです。後でまた。)

の2つです。医師や教師になりたいと思いつつも、実際の自分の能力との距離がつかめず、農場で力仕事を行うことになってしまいます。これではフックも圧倒的に少ない。

 

<森先生の本から考えたこと>

今回読んだ「勉強の価値」という本から少しづつ抜粋しながら、考えたこと、納得したことたくさんありました。

 

・勉強の価値=「観察力」「予測力」「想像力」を高める → 抽象性にある

 これを読んだ時、自分の中で考えられた具体例は2つでした。1つは算数。私は小学校2,3年生の時に(記憶が怪しい)習った「概算」という単元にとても感銘を受けたことを覚えています。だいたいいくらくらいだろう、というなんとなくの計算は今の自分にもとても有益です。概算という単元そのものが算数の抽象度を高めたものなのかな、と今では思います。2つ目は社会(特に歴史)。私たちは何かを予測して危険であればそれを無意識のうちに回避して生きています。歴史はもう少し視野を広げていて、昔このような政治が行われて、こんな結果になっているということを知ることによって、現状を捉えなおし予測する力が身に着く。これが社会科における「抽象度を高める」ことなのかと思います。(最近は哲学なんかもこのひとつなのかなと思っています。)

 

 今は2つ取り上げましたが、他の科目も抽象度を挙げた例はあるはず。

→ 別著:「科学的とは何か」(?)というものに、理科を学ぶことの重要性について先生は明記している。これは科学を学ぶことに対する抽象度を上げているように思う。

 

・勉強とは ①理性を育てる ②自分寄りの行為である ③己を知る行為である

 先生は、理性を育てることを、「別のものさしを教える」というように表している。

 特に③について、先ほどカンボジアで学んできたことの中に「自分の能力を客観視できない」ということを書きましたが、まさにこのことだな、と思いました。これは、他の人より速く走ることができるから喜ぶ、他の人より計算が遅いから悲観するという話ではなく、自分の足の速さはだいたいこの程度なんだということを自覚することにつなげる、ということです。(これも森先生が。)自分の能力がこの程度で、自分が目標とするものはこの程度の能力が必要で、だからこれくらい頑張る、というような指標が、カンボジアには欠けていたのだな、と感じました。指標が、というよりかは、同世代との集団生活が、ですかね。カンボジアでこのことを教えてくださった方はこのようなことを仰っていたのだろうか、、、。

 

・勉強にはインプットとアウトプットがある。ご飯が多すぎる(インプットが多すぎる)と、おなかいっぱいになり、つらくなる。また、それ以上のご飯をうけつけなくなる。なお、おなかを空かせるための運動の機会(アウトプット)はテストしかない。

 学校の校外学習もアウトプットにあたるのかな、と考えていました。でも、インプットを続けないといつまでたっても義務教育の中身が終わらないこともまた事実。

 勉強がつまらないとはこのことなのでしょうかね、最近ツイッターで、ストレスを感じるときは仕事に行き詰まったときだ、というのを見かけました。勉強もインプットやアウトプットに行き詰まったときストレスと感じるのだろうか?

 自分が興味がある講義、好きな講義は別腹なんですかねー。お金を払ってでも勉強したいというのはこのことでしょうか?

 

・義務教育とは自分の勉強の発見である。インプットをして、「思い、考え、気づく」無意識の思考・発想がその人なりのアプリとなり、インストールされていく。

 これはとても納得しました。こんかいもカンボジアでの話を取り上げますが、同行してくださった方に、義務教育をどのように考えているか、尋ねました。そしたら、例えば理科を学ぶとき、生命に対するリスペクトが芽生える。というお話を聴きました。これは、抽象度の話にもつながりますが、みんないきている、という無意識のインプットなのかな、と今考えています。

・また、義務教育はその後の学びの基礎となる。何か勉強を始めようとしたときに、基本的なこと(文章が読める、計算ができるなど)ができる。

 これは本当にそう!仕事をするという行動ひとつとっても、基礎となりますね。  

 

 最近読んだ本で、「科学の公衆理解」についてのことが書いてありました。例えば、防波堤はどの程度の津波を守れるのか、ワクチンの効用など、科学的根拠に基づく知識を持ち、判断することが日常生活に役立つ、というものでした。しかし、このような数値の判断は、義務教育で科学に対する、もしくは数字を扱う態度を養うことで可能であるとも書かれていました。確かに、根拠もなくおびえたり、根拠もなく余裕を持ってしまって後から公開する結果になる、ということはあっては困ります。

 

<弟は>

 始めに自分は教育を「興味の追求」と書きましたが、本を読んでもなお、私はそれを間違いだとは思いません。けど、弟には自分が生きていく上で不便にならない程度には勉強しておいて、と伝えたいと思います。進路が分からない、興味を持てるものがない、という問題に対する答えではないが、いまはなんとなくでも、やりたいことが見つかったときにそちらに向かいやすくなるように勉強するように、と。

 

 

 

なんか思ったより適当に連ねていたので、これ以上書くと文が散乱しそうなので、やめます。