夏至の前日に2026

水無月

水無月の「無」は有無の無しを意味するわけではないらしいことを最近知った。「無」は「の」という意味らしい。つまり、水の月、ということである。田植えとかのイメージらしいけど、個人的には梅雨のイメージである。

 

つい先日に桜を見たと思ったらもう6月である。

今年の6月はあまり気温が上がらず梅雨らしいと感じている。それにしても季節が過ぎるのがあっという間だと思う。気がついたら猛暑だとか酷暑だとか言って、でもそれも一瞬で、急に寒いとかなんとか言い出すのが始まって、そしたらまたすぐ桜が咲いて、ってどんどん過ぎていくんだろうなと思う。季節を十分に感じられないまま、自分の心だけが季節に置いてかれそうになることに危機感を覚えている。カメラを持っているから、季節の花や景色を積極的に撮りに行きたい。その季節を過ごしてきた証拠にするではないけど。

 

朋在り遠方より来る

 

最近鴨川ホルモーを読んだ。懐かしの孔子の言葉。漢文の例文の定番。

遠方がどの程度の距離を指すのか、人それぞれだなぁと思う。私が(元いた場所から)遠方になったという意識はあまりないけれど、隣県に住んでいる友達と会うと、このフレーズが頭をよぎる。"亦た楽しからずや"だからだ。

遠方って、個人的には、距離的なところもあるし、時間的、心理的なところもちょっとあるんじゃないかなと思っている。遠方には"わざわざ"的ニュアンスを感じるので、わざわざ調整して時間を作って、というところを想像すると、なんと楽しく、喜ばしいことではないだろうか…。

 

おわり

遠くにいても、たまに連絡をくれたり、会ったら声をかけてくれたり、連絡をしたら返してくれたり、皆様には本当に感謝しています。いつもありがとうございます。

 

去年は、よく学び、よく笑い、よく遊ぶ1年にしますと、書きました。今年は、仕事に忙殺されないように、心を動かし、休め、整える1年にしたいと思います。

 

今年も元気に夏至を迎えられそうです。

 

 

 

静岡へ

昨年の11月、初めて静岡を訪れた。その時のことを書こうと思う。

なぜこのタイミングに、というのは、最近、岡本仁さんの「また旅2」という本を買って、旅行記はいいなと思ったこと。あとは、最近美術館に北斎の展示を見に行ったときに、東海道五十三次の舞台のひとつである三保松原を見て、景色を思い出したからである。

3泊4日の旅であった。記憶に残る、とてもいい旅だった。

 

1日目

朝早く高速バスに乗り、仙台から新宿へ。そこから鈍行の電車に乗り換えて熱海へ。その日は主に移動日であった。静岡に行くにあたって、積極的に観光スポットやグルメを調べなかった。行き当たりばったりの旅にしようと、心に決めていたのである。今までの旅行では、旅立つ前からスポットを調べて、○○に行って~○○して~みたいに必死だった。しかし、それが旅先で足枷になることに気が付いた。もっと自由に旅がしたい、気ままに時間が過ごせたらいいのに、と考え、積極的なサーチをやめた。それが結果的にいい方向に傾いている気がする。自分はなぜ旅をするのか、ということをよく考える。よく考えているということが、自分の本棚に並んでいる本をみるとよくわかる。

熱海に着いた頃にはもう夜であった。正確には夕方だったのだが、秋も深まって日が落ちるのが早く気分はもう夜だった。長い移動時間だったのだが、せっかくなら現地のおいしいものを食べたいと思い、空腹に耐えていた。平日夜の熱海だったので、もう観光客向けの店はだいたい閉まっていた。歩いている人も仕事終わりの装いだった。シャッターの閉まった商店街をキャリーケースを引きながら歩いていると路地に光る看板が見えたので、ごはんが食べられるかもしれないと思い、向かった。お店は、昭和の町中華を想起させた。入ると、こじんまりとした店内にお客さんが所狭しと座っている。みんなビールの入ったコップを片手に談笑している。たばこの煙で天井付近は白く曇っている。すみません、と声をかけると、奥からお店の人(お母さん)がやってきて、一人?と聞かれる。お店はほぼ満席だったけれど、一人ならいいよ、相席でもいい?と快く通してくれた。相席をしてくれた人が私のキャリーケースを見るなり、観光かい?どこから?と尋ねてきた。宮城から、と答えると、後ろの席の人が、へぇ、宮城。よく来たね。ビール飲めるかい?と声をかけてくれた。相席してくれた人に、この店のおすすめを聞き、あんかけ焼きそばを注文した。お店を出るときに、おいしかったです、お母さん、と伝えると、お母さんじゃない!!お姉さん!!と不機嫌そうに返された。

熱海の滞在では、民宿にお世話になった。私は、民宿に泊まった経験が無かったので、怖いものみたさで泊まった。虫がおおいかな、とか、結構古いのかな、とか、いろいろ考えていた。インターネット予約なんかないので、電話をかけて、日付と人数、名前を伝えた。電話に出てくれたおばちゃんは、部屋にあるのは寝間着とタオルと歯ブラシだけだけどいい?布団とか自分で敷いてもらいますからね!と確認がはいった。は、、、はい、大丈夫です、とカチカチの声で返してしまった。宿に着くまで、本当に何もないのか?ドライヤーあるのか?とか、いろいろ考えながら、びくびくしていた。
宿に着くと、電話で聞いた声のおばちゃんが、満面の笑みで迎えてくれた。長旅ご苦労様、よく来たね、迷わなかった?いろいろ気を遣ってくれた。共用のお風呂の使い方とか、お部屋の位置とか、ひと通り教えていただいたあと、いったん部屋で休むことにした。部屋は畳で、人間2人分の布団を敷いても余裕でスペースが余るくらいだった。この部屋を一人で貸し切っていいのか、、、ドライヤーの有無を気にしていた自分が恥ずかしい。シャンプーもリンスも化粧水もアメニティはだいたい整っていた。民宿万歳。

宿で少し休んだあとは、少し散策をした。歩いて5分程度ですぐ海が見えるので、コンビニでアイスを買って、夜の海(ほとんど何も見えない)を眺めていた。山の上には、熱海城がライトアップされているのが見えた。ぼーっと夜の景色を眺めながら、寒い中、食べたアイスはとてもおいしかった。


2日目

熱海の散策を本格的に行う。坂、坂、坂で、改めて海街であることを実感する。レトロな街並みが残っていて、見ごたえのある景色ばかりで、散歩がはかどる。午前には来宮神社に行き、午後からはカフェでひと休みした。ボンネットという、創業結構長いのではないか、、、というお店に来た。席に着くと、地元の方と思しきお客さんの会話が聞こえてくる。私はマスターにコーヒーとハンバーガーを注文した。
ほどなくして、”先生”と呼ばれている方が来店した。私の前の席に座り、「ブレンドコーヒー」と一言、注文した。ホールの人が、お砂糖とミルクは?と聞くと、奥からお母さんが「先生はいらないの。でも、自分で何か持ってきているから、スプーンはつけて」と声がした。先生は、私の隣にあったラックから新聞をとり、席で大きく広げた。次のお客さんも常連さん。たばことライターを持ってご来店。「今日早いんじゃない?」とお母さんが声をかけていた。とてもいい空間だな。と思った。
頼んでいたハンバーガーが届いた。マスターが来て、「ハンバーガーの食べ方わかる?」と声を掛けてくれた。きっとマスターこだわりの食べ方があるのだろうと思い、ひと通り説明を聞いた。食べ終わって、コーヒーを飲みつつ、料理や店内の写真を撮っていると、マスターが私のカメラを見て、ミラーレスかい?Niconいいね。私はCanonよりNiconがいい。スマートだ。と話しかけてくれた。マスターはいろいろな話をしてくれた。このお店の歴史やマスター自身のこと、私が撮影したショーケースや看板の話、常連さんがくれた手紙の話。とても気さくなマスターだった。お店を出るとき、「また来てね、Ms.Nicon」と声を掛けられ、少々照れる。喫茶店の隣に雑貨屋があったので少し覗く。ニューレトロという、レトロブームに乗っかった若者向け(と勝手に思っている)のお店だった。そこで、喫茶店モチーフのキーホルダーが売っていたので購入した。

そのあとは宿でだらだらしていた。畳は立ち上がる気力が失せる。

ボンネット



3日目

食べ損ねた熱海プリンを食べるために、開店と同時にプリン屋さんへ。その後宿を出て、本日の目的地である沼津へ。宿を出るとき、宿のご夫婦が外で掃除をしていたので、感謝を述べた。お父さんは、もう帰るのかい、次はどこかいくのかい、あれは食べたかい、と旅の心配をしてくれた。お母さんは、宿で休めた?と心配してくれた。本当にありがたい。

宿から駅まではバスを使った。キャリーケースを引いて坂を上る気力は無かった。バスから見える海の景色は、とてもきれいだった。熱海城は最後まで私を見送ってくれた。三島で途中下車をして、三島大社へ行ったが、後から見返した写真は白飛びしていた、、、沼津では、沼津港を見てきた。街並みは想像以上にラブライブサンシャイン一色だったと記憶している。

 

 

4日目

この日は現地に住むご夫婦に静岡案内をお願いした。事前に、さわやかに行きたいとだけ伝えた。現地に住む人に任せた方が、こういう時は楽しめるし自分の知らない出会いがある。お任せして困らせてしまっていたら申し訳ない。
朝、富士宮で集合して、浅間大社へ参拝に行った。富士山が近くて、富士が大きいことを実感する。神社境内の池は澄んでいて、数羽のカモが優雅に泳いでいてよかった。カモのバタ足はずっと眺めていられる。その後、白糸の滝に連れて行っていただく。車はどんどん森へすすみ、風景は市街地から緑に変わっていく。車を降りると、滝の近くまで行くことができた。滝の近くでは、しぶきを感じてとてもよかった。自然の空間にいられるのってとてもいいな改めて思う。陳腐な感想しか出てこない。写真をたくさん撮ろうと意気込んでいったのに、結局、その空気を全力で楽しみたいと思い、あまりカメラを構えられず。お昼は富士宮名物の焼きそばを頂く。青のりをたくさんかけて食べて、むせそうになる。

白糸の滝

次は、山から一気に海に抜けて、三保松原へ。砂に足を取られながら歩く。海と富士が一望できて、とても絶景で、ここは撮影に夢中になってしまった。写真をたくさん撮っていただいたのに、私の写りがひどすぎて大変申し訳ない。でも、楽しそうな写真ばかりで、いい思い出が増えた。近くに静岡おでんが食べられる場所があり、そこでおでんを頂いた。小休憩。店主のおじちゃんが、静岡は変化が少ないけれど、時の流れがおだやかなんだよ、と教えてくれた。今回の旅で私が実感していたことを、上手く言葉にしてくれたような気がした。

 

最後は海沿いをドライブしてさわやかへ。さすがの人気店、休日で2時間くらいは待った(記憶)。油がはねないように紙で自分をガードする姿勢がとても面白かった。味はもちろんおいしかった。私ハンバーグが好物でして。最後、ご丁寧なことに、新幹線の駅まで送っていただいた。たくさんの景色を見ることができて、とてもいい時間を過ごすことができた。

 

ありがとうございました。

 

 

先日、東海道五十三次の絵を見る機会があったと冒頭にも書いた。私は絵画の知識が無く、目的もなく展示を見ていたのだが、ふと、旅の景色を思い出させる絵に出会った。それが、三保松原だった。昔は写真がなかったので、昔の景色は絵でしか分からない。でも絵を見て、私は北斎と同じ風景をみたのだなと思った。風景は昔と大きく変わっていないんだなあ、と感慨に浸っていた。それだけ。

三保松原



ひとり暮らし一か月、社会人一か月。

社会人になり、一人暮らしが始まりました。

 

今までは、家に帰ったら誰かしらいたんですけど、一人暮らしになると、家に帰っても誰もいない(当然(むしろ誰かいる方が恐怖))ので、寂しいです!!!自分で選んだので当然ですね。

でも、楽しいです。掃除したり、洗濯したり、家事のひとつひとつが自分をケアしている感覚になって、心地よさがあります。あとは、自分の家、という部屋ともまた違う、自分だけの空間があることが不思議です。

 

一番楽しいのは食事ですかね。自炊をするんですけど、「今日は何を食べようかな」とか、買い物行こうかな、とか。料理中も、味どうしようかな、切り方どうしようかな、とか、いろいろ考えています。自炊をするようになってから思うことは、人生において、食事ってこんなにウエイト占めるんだということ。1日3食って、結構早いサイクルだな、とか、思っています。自分で食べたいものを考えて、自分で決めるという経験は、幸せだとも思うし、億劫だとも思ったり。今のところ、料理をめんどくさいと思うことは(いまのところ)無いです。大層なものは作っていないので。。。


個人的な感覚なんですけど、料理をしていると、自分が安定する感じがするんですよね。自分の暮らしを自分で支えているという感覚が、とても心地よくて好きです。あとは、何かに集中、没頭できる時間を作ることができることもいいですね。

料理は失敗の許される実験みたいな感覚があって、そこも楽しいです。昔からお菓子を作ることが好きで、少しずつ調味料を変えたり、材料の種類を変えたりしながら、試行錯誤する時間がとても楽しいんですね。例えば、前回の記事に書いた、パンケーキに入れる牛乳を豆乳や水にしているという話もその一つだし、じつは、クッキーに入れる砂糖の種類を変えると、クッキーの甘さ加減ややわらかさが変わってきたりするんです。作ってみて、私はこれが好きかも!とか、これは次からこうしよう、みたいな経験になって、それが、次の料理への楽しみになったりするんです。

夏になるにつれて、スーパーから出来合いの鍋つゆの種類が少なくなってきてしまって、、、年中鍋食べたい私は結構困っていましたが、最近、調味料組み合わせて自分なりに鍋に味をつけることにドはまりしています。

料理研究家の長谷川あかりさんが、趣味の料理と生活の料理、という話をされていました。趣味の料理は、一つの料理、こだわってこだわって、、、みたいなので、生活の料理は日々、自分が食べるための時短料理とか、お手軽簡単~みたいなイメージ。で、私がしているのは、生活寄りの趣味料理みたいな感じですかね。普通の具材を普通に切って普通に煮るんだけど、その過程の中で、ちょっとこうしてみようかな、みたいな趣味の方向を持つことで、自分は料理楽しい、と思えているのかもしれないです。

失敗もします。味がへんとか、焦げたとか、油はねてやけどしましたとか、このまえなんかは茄子の色素が豆腐について豆腐が紫になってまずそうな見た目になったとか、、、
でも、味も技術も、どうしたらうまくいくだろうとか試行錯誤したり、上手くいったときに喜びを感じたり、上手く言った経験が次の料理を成功させるヒントになったり、することが楽しいんですね。
失敗したら、私はこんな組み合わせでこういうまずさが生み出されることを知っているとか考えたり、こうすれば効率わるいとか、こうすれば危険だとかそういうことを知っていると考えたり、して、苦笑いして楽しむんです。自分のための、自分だけの料理なので、別に他の人に食べさせようとか、だから失敗してはいけないとか、ないので。

あとは、音楽を大きめの音で流したりとか、味見(つまみ食い)したりとかも楽しいです。

料理は好きだけど、仕事の日とかは、ほぼ料理しないですよ。めんどくさいし疲れてるので。だから、休日に適当に大量に煮込んでおいて冷蔵庫つめつめに入れて少しずつ温めて食べることが多いです。どうしても肉が、、、!魚が、、、!というときはそれだけ焼いたりしてます。自分のペース大切にしたり、嫌いにならないように調整して、料理を楽しんでいます。

 

仕事の方はどうかと言いますと、だいぶ頭を抱えています。なにもわかりません。でも、とにかく行く、とにかく体に仕事をなじませる、慣れる、これしかないです。勉強をして、知識をつけることも当然ですが、仕事に行く、出勤する、これに限ります。

家に帰ると、張っていた気が一気に緩み、バタンキュー、なんて日は少なくないです。社会人の皆様(友人、家族、先輩)を本当に大尊敬しています。

あと、初給料をもらって、家族にごはんをご馳走しました。これからも、支えてくれた方に感謝を返していきたいですね。

 

私も休み明けに”仕事に行きたくない”といういたって普通の感想を持ちました。けど、なんで行きたくないのか、と考えたときに、私はできない仕事と向き合うのがつらいからと思いました。でも、行かないとできるようにはならないので、もう、行くしかないなと、ちょっと自分に鞭を入れながら、頑張ってますよ!!!
メンタルはまだ大丈夫です。

でも空気を入れすぎて、一気に風船が割れてしまう、みたいなことにもなりかねないので、適度に空気を抜いて、まだ少し伸縮できますよ、という状態を自分で見定めて、作っていくことが、大事なんじゃないかな、と思ったりもしています。それが一番難しいことが、何となくわかるんですけどね。


岡本仁さんという編集者の言葉が、最近刺さったので置いておきます。
「リラックスするというのは脱力する事ではなくて、いつでも次の動きができるように力を抜いておくことだろう」

うーん、いい言葉!

茄子の揚げ浸し、豆腐色素付き



デクリネゾン解釈殴り書き・自語り

デクリネゾン解釈

作:金原ひとみ

 

あらすじ(背表紙)
「二度の離婚を経て、中学生の娘と二人で暮らすシングルマザーの志絵。小説家として精力的に仕事をこなす傍ら、取材が元で知り合った大学生の蒼葉と付き合い始めた。日々の暮らしの中で、恋と生活が折り合う場所を探す志絵は、蒼葉と一緒に暮らしたいと娘に切り出す。娘の理子はすぐに答えを出せずにいたが、志絵が同居の話を進めると、理子は迷いの末に家を出て、元夫のもとに身をよせて…」


デクリネゾンとは
「フランス料理において1つの食材を調理法や部位を変えて焼く・煮る・ムースにするなど複数の調理に仕立て、ひと皿に盛り合わせる手法」

本の帯
「仕事、家庭、恋愛、全てが欲しい女たち」

背景
コロナ渦

 

解釈

 

ひとつの食材=自分
複数の調理法や部位=自分の感情、もしくは自分の社会との繋がり(仕事相手、恋人、娘、不倫相手)
ひとつの料理から食感を味わう=人生において刺激が欲しい
ひと皿に盛り合わせる=全て、自分を構成している要素

これに対して、蒼葉や吾郎(元夫の1人)は刺激をどちらかと言うと求めないタイプ(新しい物好きではない、こだわらない)という対比
志絵はそのような2人を見て、好きなんだけど自分とは違う部分があって、マイナスな感情も抱くこともあると認識しながら関わっている
蒼葉と吾郎もまた対極の性格で、それぞれの部分に志絵は救われてきたが、今の志絵に合っているのは蒼葉で、吾郎は元夫くらいの距離感がちょうどいいんじゃないかと(ここは解説から)

志絵の2回の離婚の理由は、志絵の不倫なのだが、志絵は自分の中のなにかに突き動かされる感覚があり、それには逆らえない様子らしかった
蒼葉と付き合っている時も、吾郎や直人(もう1人の元夫)との連絡を続けているが、これも、志絵は志絵のなかのなにかに突き動かされて、刺激を求めている状態だったんじゃないかと思う、蒼葉はそれを含めて志絵だと理解しているのではないか。
和香(小説家仲間)「不倫は不毛だが辞められない」
→人間は仕事をすること、恋愛をすること、家庭を維持することで感情やストレスのバランスを保っているが、不倫もまた、その人自身のバランスを保つための必要不可欠な構成要素だと考えていると解釈。「不毛だが」と、分かってはいるんだけど

最後、直人は別の人と結婚し、吾郎は合鍵を志絵に返す。これはずるずると(?)続いてきた元夫2人との関係がひと区切りしていることを示しているのではないかと思う。最後、理子と蒼葉と3人でイベントに行く。吾郎や直人との関係はひと区切りしたが、その時の思い出や感じたことなどは今後ずっと志絵の中の経験として残り続ける。志絵の中のなにかがまた志絵を突き動かすかもしれないし、蒼葉とも理子とも今後どうなるかなんて分からないけど、今に焦点を合わせて幸せに生きることも忘れないという締めと解釈した。

 

 

引用
「言葉とは、思いの丈を伝えるツールでありながら鏡でもあり、感情でありながら批評でもあり、肯定と否定を同時に叶えることもあり、己の罪悪や存在意義の象徴として現れることもある、複雑かつ難解、発言した人自身も己の言葉の意味を把握するのは困難な代物だ」
「言葉というものが、その人物自身というよりも、その人から少し浮遊した状態のところから発せられること、言葉をそのまま言葉通りに受け取ることができないことを知っている」

この部分が印象的であった。主人公は小説家であり、言葉を扱って仕事をしている。小説家ならではの視点や表現、世の見方、相手の捉え方が多く小説に描写されている。
ひとつのシーンに、志絵が小説に行き詰まって、自分の中の怒り、ストレスを蒼葉にサンドバッグのようにぶつけるシーンがある。本当はそんなに大して気にしてない怒りを、まるでずっと気にしてました、ずっとストレスでしたよと伝えるかのように、怒ってしまう。志絵は内心、本当はそんなに怒ってない、こんなこと言いたかったんじゃない、と思う。しかし、誰かに怒りをぶつけたいという思いの矛先を蒼葉にぶつけてしまった。(蒼葉は黙って志絵の頭を撫でる。)
また、もうひとつのシーンで、疲れた志絵が、蒼葉に甘いケーキを食べたいとわがままを言う。内心で志絵は、本当にケーキが食べたいのか分からなかったが、何となく甘えたかったという。(蒼葉は言葉を言葉の通り受け取るので、この後ケーキを食べに行こうと提案する)

志絵の「言葉が浮遊している」という意味を考えてみたが、あまりイメージが浮かばない。何となくこの辺のことを指しているのかなと思う。思ってもないことを何となく口にしてしまう、という感覚のことを指しているのか。自身の思いを全て言葉にすることが難しいということなのか。”言葉の意味を把握するのは複雑かつ難解”と表現していることがなんとなくわかるようなわからないような
→これはずっと私が考え続けることになると思う


感想はいつも同じ
小説家すごい、語彙力やばい
人間のことが嫌いででも大好きなんだなぁと

あとは、この本読んで、やっぱり人はその人としてしか生きられないのだと思った、良くも悪くも、変わらないのだと

あとは、いくつになっても、自分のことはわからないのだと

 

自分のことを分かる必要があるか、ということに関しては、私は最近はわからなくてもいいと思うようになっていて、自分のことを分かっていると思ってしまうと、自分という枠を無意識に作ってしまって、その外側に行くことを自分が許さなくなってしまい、自分の可能性を狭めてしまうから。また、自分の分からなかったことを分かるということに対して、こんなはずじゃなかった、と絶望すること?に繋がりかねないから。

また、人は変わりゆくものなので、自分がどのような存在か、自分の選択と考え方とかは、その環境や関わる人によって変わるので、変わってしかるべきと思うから、別にわからなくていい、その都度知っていけば

 

焼きそばと温泉

焼きそばをつくるの、失敗した。個人的には、炊き込みご飯とかかに玉のもととかと同じくらい誰でも作れて失敗しようのないものだと思っていたのに。小学校のころから100回くらいは確実に作ってきているけど、今まで失敗したことはないし、失敗するかもしれないと思いながら作ったこともなかった、、、、のに、、、。

 

どう失敗したかというと、蒸そうと思って水を入れすぎて麺がソフトソフト麺になってしまった。めっちゃぶよぶよで、かき混ぜようとしてトングで麺をつかんで動かそうとすると麺が切れてしまうくらい。めっちゃやらかした…。

 

えー、なんでかっていうと、(スーパー言い訳タイム)まず、焼きそばの野菜を具沢山にしようとおもって、キャベツを半玉切ったの、どうせキャベツなんて火を通したら体積0だし、たくさん入れたっていいだろ、って思ったんです!で、もやし1袋と、にんじん切って。先にお肉を焼いて、その上に野菜をどーんと入れて、その上に麺を乗せて野菜の水分で麺を蒸そうと思ったんです。いつもは野菜だけ先に炒めちゃって、電子レンジで麺だけ温めて後入れにしていたんですけど、お菓子焼いててオーブンが使えなかったので今日は麺も一緒に蒸してしまおうと思ったんです!そしたら、キャベツ多すぎて蓋が閉まらなくて、これ、蓋のすきまから水蒸気飛んで行ってキャベツが落ち着く前にお肉がこげちゃうんじゃないかと不安になって、勢いで水入れたんですね。キャベツが多くてフライパンの底が見えないので、どれくらい水を入れたのかよくわかんないまま適当に入れちゃって。そしたら、麺が、、、麺がぁぁぁぁぁぁぁぁ

 

水を計れよって話なんですけどね。意識はオーブンの中のお菓子にあったのと、私ずぼらだから!という更なる言い訳を添えておきます。

 

何とかして、何とかしてこのぶよぶよ麺ごまかせないかなぁ、、と思いながら、弱火で焦げない程度に水分を飛ばすことを試みつつ、ネットで「焼きそば 水吸い過ぎた」と検索かけていました。(なんとみじめな)そしたら、“失敗やきそば7つの方法!”というサイトが出てきて、ああ、みんな同じことで失敗するんだな、とちょっと笑っちゃいました。ちなみにレンジに入れて水分だけ飛ばすのとか、焼きそばパンにするとか、書いてました。

 

https://www.masanikki.info/entry/yakisoba-soggy-cure#google_vignette

 

レンジに入れようとおもったその時、親が帰ってきてソフトソフト麺になった状態を発見されたので、諦めて白状しました。そしたら、「失敗を繰り返して覚えていくのよ…!」みたいな、結構ガチめな励ましをもらいました。はじめは親の言葉に感動していたんですけど、だんだん、あれ、私が失敗したの、ただの焼きそばだよね、、、単純に私のずぼらだった結果だよね、、と思いなおしました。

 

親はぶよぶよの焼きそばを食べると言ってくれました。キャベツを半玉いれただけあって、野菜の甘味で焼きそばはめちゃめちゃ甘かったです。それは別にいいというか、それを狙っているというか。ぶよぶよの麺は、給食を思い起こさせました。(あれもまあまあ麺のびてたな)。もし麺を焼き直すなら、うすく焼いてガレットっぽくするとか?と言われ、そういうリメイクもあるのか、と思いました。個人的なイメージですが、麺をキッチンばさみで細かく切って、油を引いて、円状にして、ちょっと揚げ焼きっぽくする感じだといいのかな?

 

 

代わりにと言っては何ですが、オーブンで焼いていたお菓子はとてもいい具合に仕上がってました。タルトの焼き加減も最高!これは2日前とかに失敗したばっかりだったので、成功して結構嬉しかったです。嬉しさと落ち込みでプラスマイナス0。こういうの含めて、料理楽しい!

 

 

 

あと、今日は温泉に行ってきました。まだ料金が400円を超えてなかったので、めっちゃびっくりでした。安い。サウナ入ったり、露天入ったり、ぼーっとしたりしてました。気が付いたら1時間半くらい経ってました。サウナ慣れてないからか、疲れたのか、少し気持ち悪いです。

 

お菓子を作っては食べているので、太ります。

 

日記3本立てです

パンケーキ愛好会(再掲)

 

パンケーキ好き集まれ!!

 

パンケーキっていいよね、ふわっふわで幸せになれる。あまぁいはちみつと、とろけるバターを感じながら、あつあつのうちにほおばる、最高。

焼くのも楽しい。ふたをしめて、ふくらむのまだかな~とか待つ時間も楽しい。生地をフライパンに入れるときに、まんなかに綺麗に落ちたとき、きれいなまるになったときに、嬉しくなる。

 

……いやまて、そんなかわいい話にして終わるわけにはいかない。

実際の私の料理はもっとがさつだ。

私の場合、(という前置きをしておくけど)生地を準備する前にフライパンを温めはじめる。なぜならせっかちだから。で、“タイムアタックだ!!急げ!!!”とか言いながら、生地を混ぜる。少しくらいダマになってもお構いなし。生地は高い位置から入れるのが好きなので(なぜ)、引いていた油に直撃して油が跳ねる(当然なのだが)。蓋をして、半面焼けるのを待っている間に、洗い物をしたり、スマホ見たり、本読んだり、流している音楽に合わせて踊ったりしている。でも焦げると困るので、ちょっと気にしながら。

 

焼けたら、お皿に盛らず、まな板の上で6等分して、そのひとかけらを口に運ぶ。何もつけていない、生地の味100%が一番うまいと思う。補足すると、生地を作るときに、牛乳→豆乳(調整、無調整、特濃、、、)水、とアレンジするのが私は好きで、それを楽しんでいる。

 

そうやってつまみぐいをしている間に、次のパンケーキを焼いておく。キッチンで、音楽を流しながら、立ったままシンクのへりに寄りかかって、熱々のパンケーキを、淹れたてのコーヒーとともにひとり楽しむことが、至福のひとときなのだ。

 

パンケーキ焼くのって、無心になれる。ぼーっと焼いているあの時間を過ごしたいと思うときが、たま~にやってくる。ちょっとした私の逃避タイム。

だから、私はパンケーキミックスのストックを切らさない。

 

パンケーキ大好き。

パンケーキ愛好会

 



ゴッホ展

 

ゴッホ展に行った!福島に。

ずっと前から開催されることは知っていました。会期終了間際だと、人が多く来場しそうなので、こういうのは滑り込みにならないように早めに予定を合わせていくのが一番だと思うんです!ということで、友達と行ってきました。

 

私は絵画のことが全く分からないので、事前に「名画を見る眼」みたいな本を買って、ちょっとでも知識をつけていこうと思っていました。しかし、前日に家族にゴッホ見に行くことを伝えたところ、原田マハの「たゆたえども沈まず」を読むといい、言われ、借りて読破してから行きました。400ページくらいありました、、、。ゴッホに関するフィクションなんですけど、それでも、その時代のこととか、印象派とはなにかとか、なんとなくわかったので、よかったです。ちなみに、本は普通に面白かったです。展開がめまぐるしくて、400ページは一瞬で過ぎ去るのでひるまずに読んでみてほしいですね。

 

行きの車の中で、昨日ゴッホの本読んでさー、ちょっとだけゴッホのこと分かったんだよねー、みたいな話をしたんですけど、一緒に行ってくれた二人の方が、私なんかよりゴッホのこと詳しくて、「ゴッホって必修科目だったんだ、、、」「ゴッホのこと知らないの俺だけ、、、」という気持ちになっていました。一番ノリノリでゴッホ行こうって言いだしたの私だったのに、私が一番ゴッホのこと知らなかったようで、とても恥ずかしい思いをしました。

 

印象派というのは、19世紀後半のパリで発展していて、それまで描かれていた厳格な美術(構図とかを意識したみたいな)とは違った、光や色彩の変化を描こうとしたみたいです。物の輪郭も明確でない感じや、絵具のタッチ、歴史や神話よりも日常風景が描かれていることも特徴らしいです。

今回のゴッホ展で一番注目されていた作品は「夜のカフェテラス」でした。アルルで描いたらしい。オランダ時代のときには暗い絵が多かったのに明るくなったね、と友達が言っていたので、確かに~とか思ってました。ゴッホの言葉にも、「この絵に黒はない」みたいなこと言ってたのを見ました。土地、関わる人、仕事、生活、そういった環境が変わるとメンタルとかマインドが変わって、見えるものや見たいものが変わっていくんだなって思いました。ゴッホは星が描きたかったらしいんですけど、こんなに明るい店が視界に入っていたら明るすぎて星が見えないでしょう、、とか思っていましたが、ゴッホには星が輝いて見えるのか、、と思いなおしました。明るい絵で、希望に満ちている感じがしていいなって思いました。

他にもいくつか好きな絵に出会えて、そのポストカードを買いました。友達に絵の解説をしてもらったり、感想を伝え合ったりしながら展示を見ることができて、とても楽しかったです。同じ絵を見ていても見方も違うなと思ったり。

会期始まって1週間くらいで行ったんですけど、それでも人はたくさんいて、あまりゆっくり見れなかったな、、と思いました。人気なので仕方ないんですけどね、、。これが休日だともっと大変だっただろうなぁとか思ったり。

 

有名な絵を実物で見る機会って本当に貴重だなと思います。この絵がフランスから来たのか、、とか、200年前からこれがあったのか、、とかいろいろ思うとすごいな、と。もっともっといろいろな絵に出会いたいなと思いました。美術館巡りを趣味にするのもよさそう。

 

夜のカフェテラス

 

深夜ラーメン初体験レポ

“深夜にラーメンを食べる俺、最高にロックだぜ”というかっこつけた(かどうかも怪しい)ことを考え、その一心で深夜ラーメンに行った。弟を引き連れて。天下の水道、山岡家に。本当はむくむし太るし、いいことはあまりないのだけど、若さとテンションでやりたいことだってある。本当はおばあちゃんの夕飯が胃に残っていたのだけれど。

 

弟曰く、“深夜ラーメンを理由にして、おばあちゃんのご飯を食べないというのは違う”らしい。夕飯を食べたそのうえで深夜ラーメンを食べるのがいいらしい。だからちゃんと夕飯を食べてから行きました。それが夜6時。で、深夜というからには深夜に行こうと思って、11時半くらいにラーメン屋に着くように家を出た。

 

食券を買うときに、弟に“ごちですか!?ごちですか!?あざっす!!”って言われて、部活の先輩になった気分だった。それあんまり他の人にやるなよ、とか思った。

お店は空いていて、6人掛けの座敷を2人で優雅に使った。後ろの席に座っていた若いお兄ちゃん集団4人組が、「最近どう?」「仕事が忙しくて」みたいな話をしていて、みんな忙しい時間の合間をぬって深夜にラーメン屋で待ち合わせか、いいな、と思った。

私は醬油ラーメンとコロチャーシュー丼を食べた。弟は特製味噌の味玉トッピングだった。見た目も味もごつかった。さらに4種類くらいの調味料を足していた。手慣れている。通っているのか?

私の醤油ラーメンは、すごくおいしかった。普通の醬油ラーメンなんだけど、すごく。酢を足したらさらにまろやかになってよかった。私のバイト先で酢の補充が必要になる理由が分かった。みんなラーメンに入れているのか…?

すごくおいしかったと思ったのは、たぶん、味だけじゃなくて、深夜にラーメンを食べているという背徳感からくるものもあったと思う。ラーメンは文字通り体にしみた。スープの油や塩分が、足の指先にまで広がってじわじわ来る感じなんですよ、あんまり分かってもらえないと思うけど。全身に塩分が回ってきたとき、ああ、食べてる、って感覚になった。それがとてもよかった。

店を出ようと思ったら、店内の時計は0時を指していた。ああ、深夜だ、と思った。外では先程のお兄ちゃんたちがみんなで煙草を片手に集まっていた。ここはオアシスか。別に治安が悪いとは思わない。

帰り、血糖値の上昇で、とても眠かった。家に帰って歯を磨いて、そのまま眠気に抗わないで寝た。あーあ、ふとるな、って思いながら。でも、ここまで含めて深夜ラーメンなのかな???って思った。

醤油ラーメン



 

勉強の合間に

20260120 最近

 

 

最近は、勉強しています。勉強、勉強、ちょっとさぼって、勉強、勉強、さぼり。11月12月の外出ラッシュも終わり、学校も落ち着き、アルバイトもそこそこにして、少し余裕のある生活をしています。

 

これまでよりも使える時間が増えている感覚があります。いままでは、とてもせわしない日々を過ごしていたから。朝早く学校に行き、つめつめで講義を受け、空いている時間に課題をすすめ、夜にはアルバイトに行く。帰宅したらもう夜で、寝て起きたらまた学校に行く、というような、せわしない感じ。考える間もなくどんどん体を動かしていました。体調を崩していなかったことが不思議だと、今でも思います。今は、というと、いままで手伝うことができていなかった家事を手伝えたり、家族や友達と話す時間が増えたり、勉強の合間に本を読んでみようかと手に取ったり、いろいろ考え事をしたり、しています。けれど体力が落ちたな、ということを実感せざるを得ません。早く眠くなってしまいます。座ってばっかりいるので。

 

それでも、いままでよりも落ち着いて生活できている感じがして、とてもいいです。生活にゆとりがあることの良さを実感してしまっています。もう忙しいあの時に戻りたくない、、、でも、だんだん日が長くなってきて、気温も上がってくると、私の気分もきっと上向きになるだろうという根拠のない期待を胸に、春を待つばかりです。

 

 

 

大学の卒業の時に書こうと思っていた文章を少し早く書いてしまおうかなと思います。

私は大学に入って、とてもいろいろ学ばせていただいたと思います。大きいものは、旅人との出会い、アルバイト、奈良の研修、グローカルの講義と演習、学部での学び、イベントでの出会い、です。高校から一気に環境が変わり、その環境に飛び込んでみたり、身を置いたりして、多くの方と関わることができました。そして、関わりの中で、いろいろ教わったり、自分では考えもしなかった新しい見方を学ぶことができました。確実に私は人として成長できたと思います。私は卒業したら、今住んでいる土地を離れて、また別の環境に飛び込もうと思っています。今の土地に不満があるとかではなく、むしろ安心できる素敵な土地だと思います。離れるの不安だし。友達ここに残っているし。でも、私は環境を変え新しい土地に行くことで、もっと広く人と関わることで、もっと成長できないかな、と期待しています。関わってくださった方から得たこと、いただいた言葉、全部大切にして、次に進みたいなと思っています。応援よろしくお願いします!(違う)でも、今後も遠目から生存確認をお願いしたいなと思います。早いね、この挨拶するの、でもそれくらいずっと卒業を意識している、今。

 

 

私は、写真を撮るのが好きで、文章を残すことが好きで、いろいろ残しては、振り返ったりします。けど、この前、雑談(文脈は忘れた)の中で先生が「私は未来を生きている」と話していたことが印象的で「ああ、私は過去を生きているのだな」と思ってしまったんです。(説明が雑)だから、私が未来を生きることができるように、少し、言葉にしてみました。返す恩もたくさんあるし、未来に期待して明るく生きたいですね!私はネガティブ思考だから、基本的に下向きに考えてしまい、そしてこれは特性なので一生治らないと思います。なので、こころの一部に、前向きな自分を住まわせて、適度に自分に声をかけてやれたらな、と思います。この文自体も声かもしれないです。

 

こんなことを考えながら、セカイはまだはじまってすらいない(ピノキオピーの曲)を聞いて、遠い目をする。窓の外を見るともう暗くて、なんだか魂の抜けた顔をしている自分が反射して、はっとする。勉強します。